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Symphonic Organ


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オルガン音楽と云えば、先ずバッハの 『トッカータとフーガ ニ短調』 を思い浮かべるのが普通でしょう。バッハは十七〜十八世紀のドイツで活躍した作曲家で、オルガン曲に関しては古今東西を通じて最大の巨匠であることに異論を差し挟む余地はありません。
ヨーロッパ のクラシック音楽が盛んな日本でも、最近徐々にオルガン音楽愛好家の数が増えていることは大変喜ばしいことですが、この楽器がキリスト教の教会と共に歩んできた歴史的背景が、非キリスト教国の日本でのオルガン音楽普及の障害になっているのかと云えば、全くそんなことはありません。教会以外にも全国各地の コンサート・ホールでオルガンの建造 が盛んに進められ、その数は現在600台を超えるまでになっています。
 
     
  しかし演奏曲目に目を向けると、面白いことに気付きます。声楽・器楽を問わず他のジャンルでは十九世紀の所謂るロマン派音楽が七割以上を占めるのに対し、ことオルガンに関する限り、少し前まではバロック音楽以外を聞くことはほとんどありませんでした。そして現在なお主流はバロック音楽が占めています。バッハの諸作品が極めて完成度の高い、しかも オルガンの特性を遺憾なく発揮した素晴らしい音楽であること、もともとオルガン音楽の伝統のなかった日本にオルガンを導入した人々の関心がバッハに集中していたこと、またわが国の聴衆が 「知らない作品には関心を寄せない」 保守的な耳の持ち主であること、以上三つの理由から、残念ながらロマン派オルガン音楽は肩身の狭い思いをしているのが現状です。  
     
  ロマン派オルガン音楽最大の問題は、質・量ともにバッハを凌駕する作曲家が現れなかったことですが、テイストという尺度でみた場合、無視するには余りに惜しい音楽が多数存在することもまた事実です。同時代の音楽を手放しで歓迎できない現代のクラシック音楽界 (というのも妙な言い方ですが) にあってオルガンをより深く楽しむために、私はここでロマン派オルガン音楽の再評価を問うてみたいと思います。先ずは楽器の問題から議論を始めましょう。  
     
ご存じのように、十八世紀終盤フランス革命の勃発に端を発した社会変革の波は全欧州に瞬く間に広がります。この戦乱により、フランスでは数多くのオルガンが戦時供出を余儀なくされ (金属製パイプ) 、また教会を旧体制の特権階級とみなす革命勢力らによる破壊の対象となり、十九世紀初頭の時点でオルガンを取り巻く状況はクープランや クリコ らの活躍したかつての黄金時代とは程遠い、荒廃したものになっていました。  
     
  音楽に対する聴衆の嗜好と音楽そのものの語法の変化に、このような状況下のオルガンがついていけるはずもなく、財産を国家に没収された教会も楽器を新造する経済的余裕に欠けたため、新しい時代の要求に適うオルガン様式の模索は、ゆっくりと控えめに進んでいきます。  
     
  もともとフランス古典派様式のオルガンは、北のフランドルからの強い影響のもと固有の様式を確立した経緯がありますが、十九世紀初頭のパリでは、ジルバーマンの流れを汲むアルザスの カリネ・ファミリーが、ドイツの様式と音色 (整音) を洗練された流儀で自らのものとし、高い評価を得ていました。柔らかな音色のリード管とバラエティーに富んだ基音管 (8' ファウンデーション) を小ぶりのスウェル・ボックスに収めたレシ鍵盤も好評でした。  
     
  ペダル鍵盤のかたちと役割も、ボエリ らの努力で 「定旋律を 8' で奏するフランス古典様式」 から 「バス声部を 16' で受け持つドイツ様式」 に次第に変化し、新しい音楽を受け入れる素地は着々と形成されていきます。  
     
そうした中、オルガン製作の歴史に革命をもたらす一台の楽器が、パリ近郊サン・ドゥニの大聖堂 (歴代フランス国王の戴冠式が行われた由緒ある聖堂) で産声を上げました。 1841年のことです。製作者は、当時全く無名の、まだ30歳にも満たない若者です。彼がなぜこのように重要な楽器の製作を任されるに至ったのかについては、少し長くなりますが、ここでご紹介してみたいと思います。  
     
  アリスティッド・カヴァイエ=コル は1811年、当時一家が住んでいたフランス南部のモンペリエという町で、三代続くオルガン職人の次男として生まれました。カヴァイエ=コル という長い名字は、フランス人の祖父 ジャン=ピエール・カヴァイエ が、スペイン人の マリア=フランチェスカ・コル と結婚し、子供 (アリステイッドの父) にスペイン流の命名をした (両親双方の名字を与えた) ことに由来します。この一族は、フランス南西部そしてスペイン東北部に、多くの優れた楽器を建造し、その腕前は 『オルガン製作法大全』 の著者として名高いオルガン製作界の大御所ドン・ベドス も高く評価する名門でした。  
     
  アリステイッド が一家とともに同じく南西フランスのトゥールーズに移り住み (当時オルガン製作は製作家が楽器製作の現場を移り歩く形態でした) 大学で数学を勉強していた1832年のことです。この年、当時既にフランスでも名声を確立していた作曲家 ロッシーニ がオペラ公演のため、この地を訪れますが、カヴァイエ=コル 一家も町の名士に名を連ねて、この大作曲家に表敬訪問します。その席上 アリスティッド は、父と兄との協力で直前に完成させたリードオルガンの一種 『ポイキロルグ』 を披露し、解説します。当時、自由振動リードを用いて音量の連続的変化を達成させる楽器の試作は何人かがそれぞれの流儀で同時に試みていましたが、アリスティッド のずば抜けた論理的思考と見事な工作技術はこの大作曲家をいたく驚かせ、「パリに上って勉強を続けるよう」 薦めさせ、あらゆる援助を約束させたのでした。この時書いてもらったパリの実力者宛の紹介状は後に大いに役立ちました。翌1833年パリに上った アリスティッド はトゥールーズの時と同様、これらの実力者らを驚嘆させ、彼の名を深く印象付けました。  
     
  ある日彼がパリ近郊サン・ドゥニの町の名所である件の大聖堂を訪れると、1800年に失われた大オルガンの後を継ぐことになる重要な楽器の新造工事の競争入札の告知が張り出されていました。ロッシーニ との出会いと云い、この告知を偶然見かけたことと云い、どうやら彼は大きな運を味方に付けているように思われます。彼は自らが頭に描く理想の楽器の見取り図を詳細にまとめ上げ数日後に提出します。オルガン建造準備委員会の中に、先に述べたパリの実力者の何人かが入っていたことも或いは味方したのでしょうが、この無名の新進製作家の革新的楽器プランは委員全員を唸らせ、並み居る一流製作家達のそれをおさえて堂々採用となりました。彼はトゥールーズから一家を呼び寄せ、皆の協力を得て1837年までに楽器部の工事を終えていましたが、オルガン・ケースの聖堂への据え付けが建物の修復工事のため遅れ、しばらく待つことを余儀なくされました。  
     
彼には一つ心配がありました。彼の楽器は理想の 「交響的音響」 を達成するために、それまで誰も試みたことのない様々な新機軸が盛り込まれていましたが、それらの改良の結果、鍵盤タッチが重くなってしまうことについては、楽器部の工作を完了した時点でもなお解決策を見出せないでいたのです。しかしこの強運の持ち主は、この待機期間中にもう一つの重要な出会いを果たすことになりました。当時パリに来ていたイギリス人オルガン製作家 チャールズ・バーカー との出会いがそれです。
     
  全く偶然に遭遇した二人は、同業者ということもあり、オルガン談義に花を咲かせますが、チャールズ があたためていた補助機構 (後にバーカー・レバーと呼ばれます) のアイデアの概略を説明されたアリスティッドは、この機構の潜在能力の高さを直ちに見抜き、迷わず試作を開始、彼なりの改良を加えたこの機構は、チャールズ の快諾を得て、待機中のサン・ドゥニの楽器に組み込まれることになりました。  
     
  アリスティッド の天才は、単にこの機構の潜在的物理特性の優秀さを見抜いただけではなく、そのマン・マシン・インターフェイス (人間の感性と調和する使い心地) の良さを予測できたことに端的に現れています。技術者に求められるセンスに溢れていたと言い換えてもよいでしょう。今日の大型オルガンで普及している電気アクションのことを考えてみて下さい。オルガン奏者がこのアクションをあまり歓迎しない最大の理由は、鍵盤の操作感と実際に出てくる音との間に必要な 「つながり」 を実感できないからではないでしょうか。即ち電磁石で作動する風箱パレットの動きが、奏者の鍵盤上での指の動きを、忠実には再現してくれないことへの不満です。これに加えて、鍵盤が指をどのように押し返してくれるかの 「感触」 が、電気アクションの場合バネの感触だけで、人間の感性になじむメカニカル・アクションでのクリックのあるそれに比べると不自然に感じられることもその評価を下げているように思われてなりません。  
     
では、アリスティッド が注目したバーカーの 「空気梃子 (てこ) による入力増幅機構」 を検証してみましょう。鍵盤を押す指の力は、まずこの梃子の小さな弁 (吸気弁) に伝えられ、これを開きます。このメカニズムが多くの音楽家に支持された大きな理由は、絶対的なタッチの軽さに加えて、梃子の吸気弁を開く際の感触が、メカニカル・アクションで風箱のパレットを開く際の感触と共通の 「風上に向かって開く」 弁特有の「最初に引っかかるような抵抗感があってその後ストンと開く」 ものであることによります。  
     
  開いた吸気弁から梃子内部に入った空気は梃子の一端を持ち上げ、出力側のトラッカーを入力時の数倍の力で押し (引き) 上げ、この増幅された力が実際に風箱の重いパレットを開けます。では風箱のパレットが重くなってしまったことと アリスティッド の音響コンセプトとの間にはどんな関係があるのでしょうか。  
     
  彼の標榜する 「交響的音響」 とは、平たく言えば楽器の絶対的音量を上げ、様々な音色を盛り込んだ上で、最強音量と最弱音量との間に出来るだけ細かい階調 (グラデーション) を刻むという手法でクレッシェンドを達成することです。そのために彼は、  
     
  (1) たくさんの空気を安定して供給できるよう、イギリス人 カミンズ がフランスに伝えた平行収斂ふいごを採用  
  (2) 供給空気圧を二割以上上げる (音量の増大)  
  (3) フルー管とリード管、また高音部と低音部とで空気圧を変えて、各パイプが最も無理なく鳴るよう気を配りる  
  (4) 19世紀の色彩溢れるオーケストラの楽器にヒントを得た 基音ストップ (8', 16') の数を増やす (空気消費量の増大)  
  (5) 更には細かな強弱階調を求めて、手鍵盤相互間とペダルへの カプラーを充実 させる  
  といった改良を施しました。太字箇所が鍵盤タッチを重くした要因です。  
     
  バーカー・レバーをカプラーよりも鍵盤側に設置することで、たとえ全ての鍵盤を連結させたとしてもタッチは革命的に軽く仕上げることが出来るようになりました。ヴィドールやデュプレ の音楽に顕著な、早いパッセージは、この補助機構なしには想像すら出来なかったでしょう。鍵盤アクションと音楽の書法との対応という点では、レーガー の 「指10本を使った分厚い和音から変え指なしに新たな指10本和音へ"シフト"する」 書法が、空気アクションの存在抜きには考えられないと、よく指摘されますが、バーカー・レバーの場合も、その負の特性 (梃子の排気弁から空気が抜けるまでほんの少し時間がかかり、パレットの戻りを多少阻害すること) を克服するために ヴィドール、ついでデュプレ が唱えた 「鍵盤から指を離す動きの速度を意識して速める」 奏法を、ロマン派オルガン音楽の復興に伴って見直してもよいかもしれません。  
     
  『シンフォニック・オルガン 2 (1998年11月掲載予定)』 では、19世紀フランスのオルガン音楽に方向性を与えた、ナポレオン三世治下のパリの様子を音楽との関連で検証していきたいと思います。乞うご期待。  
     

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このページのタイトル画像は、
パリ近郊、サン・ドゥニ (F-93200) 大聖堂の
カヴァイエ=コル・オルガン (1841)

の写真を加工したものです。
Copyright 1994 Shoichiro TOYAMA
 
アップデート : 1999/12/31 by 遠山 祥一郎
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